生物にとって最も忌避されるべき死についてなぜわざわざ考えなければならないのか。誰だって死ぬことは怖いし、どうせならもっと楽しいことを考えたいですよね。僕も楽しいことや面白いことに満ちた人生を送りたいものです。あるいはひとつの物事に打ち込み、情熱を注ぐ人生もいいでしょう。
ですがこれが多くの人にとっては中々難しい。仕事や人間関係、将来への不安などで僕たちの頭の中はいっぱいで、他の何かが割って入る余地なんてものはありません。けれども、それらから解き放ってくれるものこそが僕らが将来苦しめられるであろう憎っくき『死』なのです。
後悔を最小限に抑えるために
人は誰しも幸せになりたいと思うものです。その幸せが何なのかは人によるでしょう。
誰かに認められたい。お金持ちになりたい。たくさんの人に愛されたい。ひたすら趣味を追求したい。価値観は千差万別ですが、共通することは「自分が心地良いと思う人生を送りたい」ということです。
そしてそれを手に入れる為には、何が必要でどんな手順を踏まなければならないのかを考えなければなりません。当たり前ですよね。しかしそんな貴重な時間をゴリゴリに削っていくのが先に述べた仕事や人間関係といった『ストレス』なのです。
ストレスは人を動けなくします。どんなに忘れようとしても頭にこびりついて離れようとしません。すべてが面倒くさい……何もする気が起きない……とにかく休みたい……。ストレスは僕たちのモチベーションを根こそぎ奪い、ストレスを発散させる為に時間を浪費させ、時には散財させます。
これでは自分の為に使う十分な時間を確保することはできません。もし仮に、仮にですよ。このような状態で神様だとか死神といった超常的存在から「キミ、明日死ぬからよろしくね」と言われたらどうでしょう?
僕だったら泣いて懇願するでしょうね。「そんな!明日死ぬとわかっていたらこんな無駄な時間を過ごさなかったのに!頼むから、もう一度チャンスをくれ!」……と。
しかし現実は無情。「うん、でももう決まったことだから」と死神の鎌を振り下ろされてハイおしまい。実際に神や死神がいるかはさておき、これは現実に起こり得ることなのです。
だから『死』を意識しなくっちゃあいけない。いつどこからともなく訪れる『死』の可能性を傍らに置いておかなければならない。少なくとも「まさか自分が死ぬなんて思わなかった」なんて思わないように。後悔のない人生を送る為に。ん……?でも後悔のない人生とは?
誰もが「後悔のない人生を」と言います。しかし本当に後悔のない人生を送れる人がどれほどいるのでしょう。実のところは、誰もが後悔しながら死んでいくのではないでしょうか?だってもし大多数の人が「我が生涯に一片の悔いなし」と死んでいけるのなら「後悔のない人生を」なんて言葉はこれほど世に出回ることはないでしょう。
その言葉はもはや残された者への忠告ではなく、ある種の祈りに似ているのかもしれません。ままならないのが人生なのです。だから僕たちは、後悔を最小限にする努力が必要だと思うのです。
『死』は人生のゴール。しかし人はいつ死ぬかわからない
望んだ生き方を手に入れる為には必要なものと手順について考える時間が必要だと書きました。これは仕事や学校の課題と同じであり、本来ならもうひとつ頭に入れておかなければならないことがあります。それは締め切りです。
年齢制限のある夢ならば締め切りは明確ですね。しかし例えば作家やミュージシャン、俳優としての成功や事業を起こすのに年齢は関係ありません。実際に五十歳を過ぎてから夢を叶える人も数多くいます。
あえて締め切りを設けるならそれは『死』です。『死』が人生の締め切りでありゴールなのです。
僕は死にたくありません。しかし将来必ず死にます。 僕だけではなく、人間は、生きとし生けるものは100%死ぬ運命にあります。それが50年後なのか30年後なのか10年後なのか一か月後なのか一週間後なのか。それとも明日なのか。それは誰にもわかりません。
わからないから、その距離を測ることができないのです。
一年後に死ぬとわかっていれば即座に行動に移すでしょう。だけど正直ピンとこないですよね。なぜなら今まで何十年も生き続けてきたのだから。「何年後かに死ぬだなんてそんなバカな……そりゃ可能性はあるだろうけど、まぁ大丈夫っしょ!」ってなもんです。
だから問題を先送りにしてしまう。死が間近に迫ってようやく焦りだす。でもこれは当然といえば当然です。人間は、追い詰められないと本気を出せない生き物ですから。
何が何でも夢や目標を叶えたい!という欲求がある人はそのまま突き進んでいけるでしょう。締め切りがなくとも頑張れる人ですから。問題はそうでない人(僕含め)です。小学校の頃、夏休みの宿題を最終日に泣きながらやっていたことを覚えていますか?
締め切りが見えないのであれば自ら作り出すしかありません。『死』は文字通りデッドラインなのです。
僕たちは『死』をリアルに感じられない
これも至極当たり前のことですね。だって僕らは死んだことがないのですから。
人間は過去に学び成長する生き物だと言われています。しかし経験したことのないことを想像しろと言われても無理があるでしょう。「三回目に死んだときは、あれはこたえたな~!もうあんな思いしないようにがんばろっと!」なんてわけにはいきません。
そして押し寄せる日々に忙殺され、埋没し、『死』を忘却する。結果目の前にある恥をかくことへの恐れやプライド、体裁などが最も恐ろしいはずの『死』を凌駕して僕たちの身動きを取れなくするのです。
このように考えると、ひとつの疑問が生じます。「じゃあ、どうやって死を意識すればいいんだ?」
ごめんなさい。わかりません。
ですが言い訳させてもらえるなら、まずは考えることから始めてみてはいかがでしょうか?僕自身、可能な限り『死』を意識して生きられるひとつのツールになればいいなという思いでこのブログを作りました。こうすればより『死』を感じることができる、ということを綴っていきたいと考えている次第です。
まとめ
なぜ『死』について考える必要があるのか?それは……
- 後悔を最小限にする為
- 人生に締め切りを作り出す為
- 死をリアルに感じることは難しい為
とりあえずこのブログの方針や存在意義のようなものを明確にするという意味合いで今回のような記事を書きました。これからもどうにか『死』を身近に意識できるような考え方を探っていきたいと思います。以上です。
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